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【親鸞聖人のご生涯7】越後での生活【千葉憲文師】

親鸞聖人のご生涯をたずねるコラム、第7話は親鸞聖人が越後へと流罪になったお話です。

専修念仏停止の命令によって法然門下の念仏者は弾圧され、親鸞聖人もその中の1人として流罪の身となったのでした。

越後での生活           

親鸞聖人は承元の法難じょうげんのほうなんによって流罪になり35歳で越後国国府こくぶ(新潟県)へと向かわれます。

国府は現在の上越市直江津なおえつあたりではないかと推測されています。

日野の地に生まれ比叡山での修行法然聖人のもとでの学び

それまでは京都を中心にした生活を送っていましたが、全く違う環境へと身を置くことになったわけです。

親鸞聖人

京都とは違う生活がはじまったんじゃ

日本海をのぞむ親鸞聖人(※異なる解釈もあります)

北陸は今でも大雪に見舞われる地域です。

親鸞聖人も厳しい自然を感じたことと想像します。

延喜式えんぎしき』によれば流人には最初の1年は1日に米1しょうと塩1しゃくが支給されたそうです。

そして、翌年の春になると種もみだけが与えられ、自分で作物を育てる。

親鸞聖人は農作業のご苦労も経験されたのかもしれません。

ただ、越後は身近な人とゆかりのある土地だったとも言われています。

同じ年、叔父の日野宗業むねなり越後権介えちごごんのすけに任命されています。

また、妻(恵信尼えしんにさま)の父(三善為教みよしためのり)も越後介えちごのすけをつとめたことがあったようです。

介は副知事、権介は副知事代理のような役職です。

慣れない土地ではありますが、身近な人のお支えもあったと思われます。

人々との出会い      

慣れない土地での生活は色んなご苦労があったと思います。

しかし、それは同時に新たな出会いの場でもあったことでしょう。

親鸞聖人

悪いことばかりではなく、新たな出会いもあったんじゃよ

これまでふれ合うことのなかった人たちとの出会いです。

地方の方々がどのようなご苦労をしておられるか。

どのようなことに喜び、悩んでおられるか。

人々の苦悩を肌で感じたことと思います。

親鸞聖人晩年のお書き物にこういう言葉が出てきます。

かはら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。れふし・あき人、さまざまのものはみな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。

(阿弥陀さまの本願念仏の教えは、例えるならば瓦や小石を黄金にかえるような教えです。瓦や小石というのは私たち人間のことです。猟師(漁師)や商人などが軽蔑されることがあるようですが、私たちはみんな小石が黄金に変わるように救われていく仲間です。)

『唯信鈔文意』(筆者意訳)

当時はお仕事によって軽蔑されることがあったそうです。

生きものを直に殺め、さばくお仕事に関わる人々。

物を売り買いする商人として働く人々。

そういう人たちが「下類げるい」と呼ばれていたようです。

しかし、親鸞聖人はみんな黄金こがね(仏)となっていく仲間と仰います。

このような思いは、越後での出会いによって育まれたと想像します。

厳しい自然の中、さまざまなお仕事に励む人たちとの出会い。

悩み苦しみながら懸命に生きる人々との出会い。

共に苦悩を抱えた人間として、共に本願念仏に救われていく仲間として。

力強く「われら」と言い切られたのです。

親鸞聖人のご家族  

親鸞聖人

ちょっと家族のことも話しておこうかの

親鸞聖人のご家族といえば妻の恵信尼さまが思い浮かびます。

コラムでもたびたび登場してきました。

三善為教(為則ためのり)の娘と言われています。

『日野一流系図(実悟じつご撰)』によれば、お子さんは7人記されています。

上から順番に書いてみます。

範意はんい印信いんしん

小黒女房おぐろのにょうぼう

善鸞ぜんらん慈信房じしんぼう

明信みょうしん栗沢信蓮房くりさわしんれんぼう

有房ありふさ道性どうしょう

高野禅尼こうやのぜんに

覚信尼かくしんに

4番目の明信は承元じょうげん5年(1211)3月3日生まれであることが分かっています。

流罪中にお生まれになっていることから、ご家族で越後におられたのでしょう。

4男3女のお子さんに恵まれた大家族だったようです。

親鸞聖人の奥さまについては謎もあります。

『日野一流系図(実悟じつご撰)』では長子範意はんいの母が「摂政兼実公女かねざねこうのむすめ」と記されています。

摂政九条兼実くじょうかねざねの娘と結婚した可能性が出てきます。

親鸞聖人御因縁しんらんしょうにんごいんねん』という古い説話集に玉日たまひ」というお姫さまが登場します。

この方が兼実の娘と出てきますから、玉日姫のことを指しているのかもしれません。

小黒女房から下のお子さんの母は「三善為教女ためのりのむすめ 法名恵信」とあります。

こちらは恵信尼さまのことです。

これを見ると親鸞聖人には2人の奥さまがいたことになります。

さらに善鸞ぜんらんは恵信尼さまのことを「まま母」と言いふらしたことがあったようです。

善鸞の母が恵信尼さまでなかったならば、もう1人奥さまがいた可能性まで出てきます。

当時は一夫一婦制ではありませんから、奥さまが何人かいても不思議ではありません。

しかし、恵信尼さま以外の方は不明なことがたくさんあります。

研究の進展や新たな史料の発見が待たれるところです。

仏さまの前ではみんな仲間     

先ほどご紹介した親鸞聖人の『唯信鈔文意ゆいしんしょうもんい』というお書き物には鎌倉時代にはお仕事によって軽蔑されることがあったことが記されていました。

これは職業による差別があったということです。

「職業によって差別するなんて、なんて時代だ!!」

そう感じる方があるかもしれません。

けれども、差別の問題は現代でも大きな課題です。

人種差別、性差別、宗教差別、結婚差別などなど。

決して過去の課題ではありません

親鸞聖人は差別を超えて「われら(仲間)」と言い切られました。

人間の力ではどうすることもできない自然の厳しさ。

その厳しさの中で悩み苦しみながら懸命に生きる姿。

同じように悩み苦しむ姿に深い共感を覚えた時、「われら」の思いがこみ上げてきたのでしょう。

お釈迦さま

人はみな等しく凡夫である

仏さまは人間を「凡夫ぼんぶ」とお示しになられました。

「欲や怒りに振り回されて、自ら苦悩を生み出す存在」という意味です。

人間はみんな苦悩を抱えた凡夫ということになります。

私たちには、職業・性別・宗教などさまざまな違いがあります。

けれども苦悩を抱えた存在という点ではみんな同じです。

同じ根っこを抱えている仲間と言えるでしょう。

その仲間たちの表面が少しずつ違っている。

それによって世の中は多様な彩りを見せるんだと思います。

輝きを放つんだと思います。

そう思えば、違いを差別するのではなく仲間として尊んでいく

親鸞聖人のお言葉に違いと向きあうヒントを感じます。

合掌

参考文献

コラム執筆者

千葉憲文師

香川県在住の真宗興正派僧侶。本山布教使。
ゆっくりとやわらかな口調のお話で、お念仏の教えと身近な話題とのつながりがわかりやすいと評判。

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