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親鸞聖人とは?
90年にわたる激動の人生に
見いだされた浄土真宗の教え

親鸞聖人

わしの人生をざっと読むことができるぞ。

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親鸞聖人とは

親鸞聖人しんらんしょうにんは平安時代末期から鎌倉時代にかけて生きられた僧侶です。

戦乱や災害がつづく混迷の時代に、いわゆる普通の人々の苦悩に寄り添う他力の仏道を説かれました。

当時としては大変長命で、90年のご生涯であったと伝えられています。

親鸞聖人

本記事では親鸞聖人のご生涯の略歴教えの要点をかいつまんで紹介しています。

親鸞聖人の生涯のおおまかな流れを一緒に見ていきましょう。

第1章 親鸞聖人のお誕生

親鸞聖人

まずはわしが生まれたころの話じゃ。

親鸞聖人は承安じょうあん3年(1173)春のころ、京都日野の地(京都市伏見区)でお生まれになりました。

父は皇太后宮大進こうたいごうぐうのだいしんという役職を務めた貴族の日野有範ひのありのり、母は吉光女きっこうにょと言われています。

幼名は松若麿まつわかまろ(松若丸)と伝えられています。

当時は源平の争いを中心に争乱が続いていました。

また、京の町は飢饉や疫病によって道に死体があふれる地獄絵のようなありさまだったそうです。

そのような混迷の時代に親鸞聖人は生まれました。

第2章 親鸞聖人のお得度

親鸞聖人

わしは数え年の9歳で僧侶になったのじゃ。

現代だったら小学校2年生じゃな。

養和ようわ元年(1181)、親鸞聖人が数え年で9歳となったころ。

天台宗の僧侶である慈鎮和尚じちんかしょう慈円じえん)のもとで出家しゅっけ得度とくどをされました。

慈鎮和尚は摂政や関白を歴任した九条兼実くじょうかねざねの実弟で、天台座主てんだいざすを4度つとめた方です。

お得度に際して、幼少期の親鸞聖人は範宴はんねんというお名前をいただきました。

下の絵は親鸞聖人がお得度された時の様子が描かれたものです。

お得度の様子

左に慈鎮和尚、3人の黒衣の僧侶の真ん中で座っているのが親鸞聖人です。

夜中に出家したと伝えられるため、部屋にはロウソクが灯されています。

得度に際して、大事な機会を先延ばしにはできぬとの思いから、このような詩を読まれたと伝えられています。

親鸞聖人

明日ありと思うこころのあだ桜

夜半に嵐の吹かぬものかは

出家の動機ははっきりとしませんが、地獄のような世相の中で仏さまに救いの道を求めたのではないかと想像します。

第3章 比叡山での
20年にわたる修行期間

親鸞

僧侶になったあと、20年比叡山で修行したんじゃ。

お得度をされた親鸞聖人は比叡山ひえいざんで勉学や修行に励みます。

比叡山では堂僧どうそうをおつとめになられました。

堂僧とは常行堂じょうぎょうどう不断念仏ふだんねんぶつをつとめる僧です。

比叡山の常行堂

ひたすら阿弥陀さまの名を称え、念じ続ける修行をされたと思われます。

厳しい修行の中で、懸命に仏道を歩まれた親鸞聖人。

しかし、その中で自力では煩悩を消し去れないという悩みを抱えたようです。

親鸞聖人

わしは自分の力では修行を完成してさとりを開くことができないのか・・・!

懸命に歩んだ20年間の否定ともいえる深い苦悩でした。

29歳のとき、自力の修行を断念し比叡山を下りられました。

第4章 法然上人との出遇い

親鸞聖人

比叡山での修行を断念したわしは六角堂へ向かったのじゃ。

比叡山を下りた親鸞聖人は京都市内にある六角堂ろっかくどうへの参籠さんろうをはじめました。

100日間の参籠を決意されたようです。

参籠をはじめて95日目のあかつき(夜明け前)に、観音菩薩の夢告むこくを受けます。

夢告とは夢のお告げということですが、当時はその後の人生を左右するほどの重要な体験と考えられていました。

夢告を受けるご様子

観音菩薩のお告げは「たとえ妻帯して戒律をやぶっても、かならずお浄土へ導く」という内容でした。

煩悩を消し去ってさとりを開けない者にも歩む仏道があることを示されたのです。

在家生活での救いに目を向けられた親鸞聖人は法然上人ほうねんしょうにんのもとへと向かいます。

法然上人のもとには身分や職業・年齢を超えてさまざまな人が集まっていました。

そこでは、万人が救われていくお念仏の道が語られていたのです。

親鸞聖人はついに本願念仏に出遇われます。

晩年、この年のできごとを振り返っていわれました。

親鸞聖人

建仁元年(1201)、雑行ぞうぎょうを棄てて本願念仏に帰依したのじゃ。

第5章 吉水時代の親鸞聖人

親鸞聖人

法然上人にはたくさんのことを学ばせていただいたのじゃ。

法然上人は吉水よしみずの地(京都市東山区)におられました。

吉水にはお念仏の道を求めて大勢の人が集まっていたようです。

親鸞聖人はそこで、仲間とともに本願念仏の道を歩まれました。

33歳のときに、法然上人の主著『選択本願念仏集せんじゃくほんがんねんぶつしゅう』の書写と肖像画の作成を許されます。

『選択本願念仏集』を手渡す法然上人

本の書写や肖像画の作成許可は師匠に認められたことを意味します。

この時の親鸞聖人は綽空しゃっくうというお名前を名告っておられました。

その後、しばらくして名前を改め善信ぜんしんもしくは親鸞とされたようです。

第6章 越後へ流罪になった親鸞聖人

親鸞聖人

これは今でも納得がいかん・・・!

法然上人のもとで充実した日々を送った親鸞聖人。

しかし、その生活は長く続きませんでした。

35歳、建永けんえい2年(1207)2月に朝廷より専修念仏停止の命令が下されます。

そして、越後の地(新潟県)へと流罪になりました。

承元の法難じょうげんのほうなんと呼ばれる出来事です。

弾圧を受ける念仏僧

流罪にまで処せられた原因は明らかではありません。

一説には後鳥羽上皇の怒りをかったからではないかといわれています。

後鳥羽上皇が熊野参詣で留守中のこと。

法然上人の弟子の安楽房や住蓮房が上皇に仕えていた女官を出家させたことが理由だというものです。

安楽房と住蓮房は死罪という処罰をくだされています。

また、法然上人のもとには大勢の人が集まっていたため、新しく興ってきた集団に対して権力者や既成の仏教教団から圧力がかかったのかもしれません。

法然上人は土佐の地(高知県)への流罪を申し渡されています。

親鸞聖人と法然上人、これが今生の別れとなりました。

第7章 越後での生活と
恵信尼さまとのご結婚

親鸞

越後での生活は厳しくもあったが、新たな出会いもあったのじゃ。

親鸞聖人35歳のころ。

住み慣れた土地を離れ、寒さ厳しい越後での生活がはじまりました。

全く違う環境での生活はたくさんのご苦労があったことと想像します。

しかし、それはこれまでふれ合うことのなかった人たちとの出会いの場でもあったことでしょう。

地方に住む人がどのようなことに喜び、どのようなことに悩んでおられるのか。

人々の苦労を肌で感じるご縁にもなったことと思います。

日本海をのぞむ親鸞聖人一行

このころまでには妻の恵信尼えしんにさまとご結婚されていたようです。

越後に行かれて5年目の春にはご子息信蓮房しんれんぼうを授かっておられます。

39歳のとき、建暦けんりゃく元年(1211)11月に流罪を許されました。

第8章 越後から関東へ移住した親鸞聖人

親鸞

赦免をうけて、3年ほどたったころに関東へと赴くことにしたのじゃ。

建暦元年 (1211) 11月に流罪を許された親鸞聖人ですが、その後もしばらく越後に滞在されたようです。

同じ年の3月に息子信蓮房が生まれていました。

出産後間もない妻や幼い子がいたことから長距離の移動を避けたのかもしれません。

妻や子を気づかったとすれば、家族思いの親鸞聖人像がうかびあがってきます。

赦免を受けて3年ほど経ったころ、親鸞聖人は関東へと拠点を移されました

関東への道のり

鎌倉幕府の誕生とともに新たに国の中心となっていった関東。

そこには法然上人のお弟子さんもたくさんおられました。

縁のある方から招かれたのではないかと思われます。

第9章 関東でのご教化

親鸞聖人

関東ではたくさんの仲間ができたのじゃ。

山伏弁円との出会いもその頃のことじゃったな。

親鸞聖人は関東で20年ほど布教活動をされました。

ゆかりの地として下間しもつま小島こじま(茨城県下妻市)、稲田郷いなだのごう(同笠間市)などが伝えられています。

稲田郷の草庵には本願念仏の教えを求める人が大勢訪れたようです。

また、ご自身も遠方へ出向いてご教化されたようです。

親鸞聖人のご生涯を描いた『親鸞伝絵』には険しい山道を行き来した形跡が見られます。

稲田の草庵

関東でのご教化で有名なのが山伏弁円べんねん回心えしんです。

弁円ははじめ親鸞聖人を殺害しようと企てておりました。

そのために親鸞聖人の通る道中で待ち伏せをします。

しかし、いくら待ち伏せしていても親鸞聖人とはち合うことができませんでした。

業を煮やした弁円は親鸞聖人のお住まいに押しかけます。

ついに親鸞聖人と顔を合わせた弁円。

しかし親鸞聖人のお姿を見た途端に殺害する心が消え、後悔の涙がこぼれてきたといいます。

身につけていた武器を捨て去り、本願念仏の教えに帰依したと伝えられています。

回心した弁円の様子

関東での熱心なご教化は、高田門徒、荒木門徒、横曽根門徒などの念仏集団を生み出しました。

第10章 京都での執筆活動

親鸞聖人

20年あまり過ごした関東の地を離れ、京都に戻ったのじゃ。

教行信証をはじめ、このころは執筆活動に注力したのじゃ。

63歳ごろ、親鸞聖人は関東の地を離れ京都へ移住されました。

お住まいは転々としたようですが、五条西洞院や三条富小路辺りに住んだようです。

京都では晩年まで執筆活動に励まれました。

このころには主著『教行信証きょうぎょうしんしょう』はある程度完成していました。

京都でのご様子

しかし、最晩年まで手を加えた跡がみられ、70歳を超えてからも手は休めません。

親鸞聖人のお書きになった書物は本記事の最後にまとめております。

第11章 息子善鸞の義絶

親鸞聖人

息子を勘当することになるなんて・・・!

親鸞聖人の晩年には心を痛めるできごとも起こりました。

息子慈信房じしんぼう善鸞ぜんらん義絶ぎぜつ(勘当)です。

親鸞聖人が84歳のことでした。

親鸞聖人がはなれた後の関東では、門弟たちのあいだに混乱が生じることがあったようです。

お師匠さんがいなくなると勝手なことを言い出す人もいたのでしょう。

言い争いなども起こったようです。

親鸞聖人は混乱をおさめようと、息子慈信房を名代として関東へ送りました。

ところが慈信房は「そらごと」を申して、かえって混乱を深めてしまいます。

父親鸞へウソの報告をしたり、門弟にありもしない教えを語っていたようです。

やがてそのことが明らかになり、親子の縁を切ることとなりました。

たよりとした息子を義絶しなければならなかったこと。

ご心痛ははかりしれなかったことと想像します。

第12章 親鸞聖人のご往生

親鸞聖人

そろそろお別れのときがきたようじゃの。

先に浄土で待っておるぞ!

弘長こうちょう2年(1262)11月28日、親鸞聖人は90歳でご往生なさいました。

ただ仏恩ぶっとんの深きことを述べ、もっぱら称名念仏してのご臨終であったそうです。

ご臨終を悲しむ人々

法然上人と出遇い、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」と教えられた親鸞聖人。

最後まで本願念仏とともに歩み続けたご生涯でした。

ご遺体は鳥辺野とりべのの地で荼毘だびにふされ、大谷の地(京都市東山区)に墓碑を建ててお遺骨が納められました。

亡くなられてから10年後、文永9年(1272)のことです。

大谷の地にお遺骨を納める廟堂が建てられました。

廟堂というのはお墓所のことです。

親鸞聖人は大勢の門弟に慕われました。

遠近各地より参詣する方が絶えなかったのでしょう。

そこで廟堂として整備されたのだと思われます。

廟堂は今日にいたるまで大切に伝えられています。

本願念仏の道を歩んだ親鸞聖人。

その生き方は今の私たちにも大事なことを伝え続けています。

《注:年齢の表記は「数え年」になっております。》

親鸞聖人の説いた教え

親鸞聖人は『浄土和讃』にこのように詠われています。

親鸞

念仏成仏これ真宗

浄土真宗を端的にあらわせば南無阿弥陀仏とお念仏を申せば仏となる教えです。

なぜ南無阿弥陀仏のお念仏一つで仏さまになっていくのでしょうか?

お念仏には阿弥陀さまの願いが込められています。

阿弥陀さまは生きとし生けるものを見捨てず、必ず救うと誓われました。

苦悩に沈む私たちをどこまでも見捨てぬ願い。

すべてのものに安らぎのある人生を送って欲しいとの願い。

そんな大きな願いをかけてくださる仏さまがいらっしゃったのです。

阿弥陀さま

親鸞聖人は阿弥陀さまの願いの中に生かされていることを聞かれました。

愚かさを抱えた私を見捨てぬ願いのありがたさに感動しました。

その願いに深く帰依したとき、自然とお念仏の歩みがはじまりました。

阿弥陀さまの名を称える者は、阿弥陀さまとともにある者です。

ついには阿弥陀さまのお浄土へと往生し、必ず仏となってゆくのです。

親鸞聖人の著作

親鸞聖人は生き様を通して、阿弥陀さまとともに歩む姿をお示しくださっていました。

また、たくさんのお書物を書き残し、願いのこもったお念仏を顕らかにしてくださいました。

親鸞聖人の著作
『教行信証』(詳しくは『顕浄土真実教行証文類』)6巻
『浄土文類聚鈔』
『愚禿鈔』2巻
『入出二門偈』
『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』
(まとめて『三帖和讃』とよばれることも)
『浄土三経往生文類』
『尊号真像銘文』2巻
『一念多念文意』
『唯信鈔文意』
『如来二種回向文』
『弥陀如来名号徳』
『親鸞聖人御消息』(『末灯鈔』2巻・『御消息集』・『血脈文集』など)

※親鸞聖人に関するお書物では『歎異抄』がとても有名ですが、これはご本人がお書きになったものではありません。

直弟子の唯円さんが親鸞聖人から聞いた言葉を書きまとめたものです。

親鸞聖人の教えを伝える
真宗十派

2023年、浄土真宗では宗祖親鸞聖人お誕生850年の節目を迎えるため、真宗各派において法要が準備されています。

親鸞聖人のご生涯については、今も専門家の間で日々研究が重ねられています。

まだまだ事実が解明されていない部分も多く、それぞれの宗派に語り継がれた寺伝もございます。

この連載はそれらの研究にものを申す意図も、寺伝を否定する意図もありません。

1人の真宗僧侶が大きな節目の年に親鸞聖人のご生涯をたずねてみたものとしてお読み頂ければ幸いです。

研鑽が続く歴史研究は専門書を、各派の寺伝はそれぞれの宗派のホームページなどをご覧いただければご縁が広がると思います。

浄土真宗や仏教界を盛り上げる一助となればと願っております。

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(執筆・千葉憲文 )
(編集・三原貴嗣 )