前章の第7章では親鸞聖人の越後での生活を紹介しました。
今回の第8章では流罪を許されたことと、その後の関東への移住に注目したいと思います。
でもその前に少し、お師匠さんである法然上人のことにも触れておきましょう。
流罪後の法然上人
第6話でご紹介したように、
法然上人の配所は
『
法然上人の足取り
京都を出発した法然上人はまず
そこから
その後、瀬戸内海にうかぶ
まずは陸路を西へ向かい、たつの市辺りから船に乗ったのでしょう。
道中のできごとを記す中に次のような表現があります。
「村里の男女、老少そのかずおほくあつまりて、上人に結縁したてまつりけり」
「上人、念仏往生の道、こまかにさづけたまひけり」
『行状絵図』より
法然上人は道中でもただ一筋に「お念仏の道」を説かれていたようです。
そして、土佐国まで行くことはなく、讃岐国に逗留されたようです。
弘法大師ゆかりの
法然上人の勅免
法然上人は流罪に処せられたが、同じ年の暮れには罪を許されたんじゃよ。
法然上人は
ただし、京都に帰ることまでは許されなかったようです。
摂津国まで戻り、
ようやく東山大谷の坊舎に落ち着いた法然上人でしたが、翌年の正月から病気がちになります。
そして、1月25日の正午ごろお念仏をとなえながら臨終を迎えました。
親鸞聖人はご往生の様子を和讃に詠われています。
道俗男女預参し 卿上雲客群集す
頭北面西右脇にて 如来涅槃の儀をまもる
『高僧和讃より』
僧侶も一般の民衆も、男性も女性も、法然上人のご臨終を聞いて集まりました。
お公家さんなども大勢集まりました。
法然上人は頭を北に、面を西に、右脇を下にして、お釈迦さまが入滅されたときと同じようしてご往生なさいました。
という意味じゃ。
(筆者意訳)
老若男女、貧富の差、身分の違い。
そのようなことに関係なく多くの方に慕われた法然上人のお姿が偲ばれます。
生涯の師と仰ぐ法然上人、80年のご生涯でした。
親鸞聖人も勅免を受ける
わしは
建暦元年11月17日、親鸞聖人は罪を許される勅免を受けます。
越後へ来て約5年が経とうとしていました。
主著『
ご自身のできごとをほとんど語らない親鸞聖人が日付まで書いていますので、勅免を受けたことはよほど大きな喜びだったのでしょう。
親鸞聖人は
自分の罪が許された事はもちろんのこと、本願念仏に対する誤解が解けた喜びもあったのだろうと思います。
さて、罪を許された親鸞聖人ですが『
かしこに化を施さんがために、なほしばらく在国したまひけり。
『親鸞伝絵』より
と書かれています。
もうしばらく越後にいてお念仏の道をひろめよう。
そう思ってしばらく越後国にとどまったそうです。
そこにはご家族への思いやりもあったような気がします。
勅免と同じ年の3月に息子の
1歳に満たないお子さんを抱えての長旅を避けた。
産後の妻の体調を気遣われた。
そう思えば家族思いの親鸞聖人像が浮かんできます。
『親鸞伝絵』ではしばらく越後国に滞在し、そこから関東へ向かったと描かれています。ただ、親鸞聖人の関東での足跡が分かるのは勅免から3年後の建保2年(1214)。三部経千部読誦というできごとです。その間、一度も京都に足を踏み入れなかったのでしょうか。
佛光寺本『親鸞伝絵』には勅免の後、一度京都へ立ち寄られたことが伝えられています。この伝承は現在の史学ではあまり支持されていません。しかし、流罪を勅免された者が朝廷へお礼を述べに行かれた。また、亡くなられた法然上人のお墓参りに行かれた。短期間でも、お一人ででも、京都に立ち寄ったことはあったんじゃないかと思ってしまうのです。
親鸞聖人はなぜ関東へ移住されたのか
越後国の地を離れた親鸞聖人は関東に拠点を移されました。
妻の
親鸞聖人が関東へ移住された理由には様々な見解が示されています。
全てをご紹介することはできませんが、『
事の縁ありて東国にこえ、はじめ常陸国にして専修念仏をすすめたまふ。
『最須敬重絵詞』より
ご縁があって関東へ行き、
関東には法然上人ゆかりの方も大勢いたんじゃよ。
法然上人の門弟は関東にもおられました。
武家の方たちが多く知られています。
「鎌倉の二位の禅尼」と呼ばれた北条政子や
北条政子は将軍源頼朝の妻として特に有名です。
法然上人は津戸為守あてのお手紙で、
関東の地でもすでに本願念仏の教えが広がりを見せていました。
そのような中でご縁のあった方が親鸞聖人を関東に招いたのでしょう。
そして、有縁の方々と共に関東での布教を志したのです。
親鸞聖人は晩年『
三部経 の千部読誦 と内省
関東における親鸞聖人の最初の足跡は42歳の三部経の千部読誦です。
建保2年(1214)のできごとになります。
読誦というのはお経のご文を声に出して読むことです。
『大経』『観経』『小経』と呼ばれることもあります。
親鸞聖人はこれを1,000回読誦しようと思い立ちました。
恵信尼さまのお手紙には次のように記されています。
三部経を千部読誦しようとしたのは、信蓮房が4歳の年のことでした。
武蔵国でしたか上野国でしたか。「佐貫」というところで読誦をはじめました。
しかし、4・5日ほどして思い返し、常陸国へ向かわれました。
『恵信尼消息』より 筆者意訳
佐貫というのは現在の群馬県
この地域は地理的に水害が多発した土地だったそうです。
被害に遭われた人々から供養を頼まれ、千部読誦を思い立たれたのかもしれません。
しかし、数日で思い直して常陸国へ向かわれたとのことです。
病床での回想
千部読誦のできごとには続きがあります。
17年後のことじゃった。
病床で千部読誦のことが思い返されたんじゃ。
17年後の
病床で千部読誦を中止した時の心境を思い起こされました。
内省のお心は次のように記されています。
いかにも立派な僧侶であるかのように「衆生利益のため(人を救うため)」と思い千部読誦をはじめました。
しかし、自分の力でお経を1,000回読誦すれば救えるとはどうした思い違いだったでしょうか。
本願念仏の教えを自ら聞信し、人にも勧める。
それこそが仏さまのご恩に報いる道と教えていただきながら、お名号(お念仏)だけでは不足があるようなふるまいをしていました。
いかにお経典とはいえ、自分の力で1.000回読誦したら人々を救えるなどというのは私の思い上がりでしかありませんでした。
人間の自分の力に執着する心は恐ろしい。そう思い直して千部読誦を中止したのでした。
『恵信尼消息』より 筆者意訳
病気で苦しんでいる時に17年前のことを思い出す。
千部読誦は自らの執着心を象徴する決して忘れられないできごとだったのです。
ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし
親鸞聖人は法然上人から教えられました。
ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし
『歎異抄』より
お念仏を申して阿弥陀さまの救いにあずかる。
ただお念仏一つですよと。
阿弥陀さまの救いにあずかるというのは、他人まかせとは違います。
自分の力では間に合わないことがある。
お任せするしかないことがある。
自らの限界を知り、そんな私を決して見捨てない願いがあることへの目覚めです。
私たちは自分の力に執着して迷うこともあります。
「自分はもっとできるはずなのに、こんなはずじゃなかったのに」
自らを過信し、自ら迷い、自ら苦しむ。
そんな生き方を離れるのも本願念仏の教えです。
握りしめた拳が開かれ、心を縛るものから解放される。
その瞬間を阿弥陀さまの救いにあずかると言うのです。
仏さまの願いをよりどころとするので「他力の教え」と呼ばれます。
法然上人から他力の教えを聞かせて頂いた親鸞聖人。
けれども、生きている以上、人間は自力の執着心が顔を出してきます。
ただ、その執着心からまた本願念仏の道へと自然に戻して下さる。
そのようなはたらきも他力の教えにはあります。
私たちも日々迷いや苦しみの日常を送っています。
だからこそ、親鸞聖人の歩みをおたずねしたい。
だからこそ、本願念仏の教えをよりどころとしたい。
親鸞聖人の内省にそのように感じさせられます。
合掌
さて、続いて第9章では関東で教えを説く親鸞聖人のご様子を紹介します。
- 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』本願寺出版社 2004年
- 『真宗史料集成』第1巻 同朋舎出版 1983年。
- 『法然上人伝全集』井川定慶編 法然上人伝全集刊行会 1952年。
- 『昭和新修 法然上人全集』石井教道編 平楽寺書店 2004年 第6刷。
- 『親鸞』平松令三著 吉川弘文館 1998年。
- 『法然』田村圓澄著 吉川弘文館 2002年 新装版第6刷。
- 『下野と親鸞』今井雅晴著 自照社出版 2012年。
この記事を書いた人
香川県在住の真宗興正派僧侶。本山布教使。
ゆっくりとやわらかな口調のお話で、お念仏の教えと身近な話題とのつながりがわかりやすいと評判。
法然上人のことも気がかりじゃのぉ。