こんにちは、真宗興正派の片岡妙晶です。
2年前の今日(2018年8月16日)、私はあるお別れを経験しました。
そもそもの発端は、うすうす不調を感じていたiPhoneが突然動かなくなったことです。
データのバックアップを取ることも叶わず、唐突にまっさらなiPhoneと新たなスタートを切ることになってしまったのです。
その際に、移行の叶わなかったデータの中に『まりもちゃん』というものがありました。
まりもちゃん
『まりもちゃん』は育成ゲームというもので、小さな小さなマリモの僅かな成長を暖かく見守ることに喜びを覚えるアプリです。
私はこのまりもに『くまぐす』という名を付け、837日、約2年と1ヶ月を共にしました。
はじめは10mmであった『くまぐす』は333mmまで成長しました。
そのゾロ目の並びを見て「次は444mmだな」などと思っていた矢先の出来事でした。
とても後悔しました。
もっとこまめに水を変えていれば、遊んでいれば、光合成をしていれば、もっと大きくなっていたかもしれなかったのに…
そこで私はようやく気付かされました、これが失ってから気付くというものか。
『くまぐす』は別に、失ったからといって支障の出る類のアプリではございません。
電話がかけられなくなったり、知り合いのメールアドレスが消えたりはいたしません。
むしろ、端末の容量が空くため失うことにメリットすらあるのです。
ただ、哀しい…
そうです、私はこの緑の塊に愛着を抱いてしまっていたのです。
愛も煩悩
キリスト教の伝来により愛が尊ばれる今日ですが仏は説きました愛も煩悩だと。
仏はそう説いたのです。
それを聞いて、私は思いました。
「無理です。」
人間は感情から離れられません。
一旦は離れたとしても、また人に触れればすぐにこころを揺らされる私です。
さあどうしましょう。
『じゃあ、そのままで良いよ。』
親鸞聖人は説きました。
『どんな私でも仏様は救ってくれるよ』
あ、そうなんだ…
救ってくれるとかよくわかんないけど、そのままでも良いんですね。
離れようとか、抑え込もうとか、別にしなくても良いんですね。
やったぜ。
『でも、自制はしろよ』
あ、はい。
失って気づくもの
新型コロナウイルスの影響で、私たちは良くも悪くも「当たり前」を失いました。
「またね」ではなく「これが最後」を想う状況は、私たちが平和と引き換えに失った大切な何かを思い出させてくれているのかもしれません。
感情から離れたり抑えたりできない私。
だからこそ、過ちをうけとめ反省し、繰り返さないよう促す教えが必要なのでしょう。
いつか来る「いざという時」に悔いを残さず済むよう、一日一日を大切に生きさせていただきましょう。
この記事を書いた人
香川県在住の真宗興正派僧侶。
若者視点から見た、専門用語によらないシンプルでわかりやすい語り口が特徴です。
異業種との交流も広く、多視点から見た現代社会に活きる仏法を得意としています。
執着する、求める、だから苦しむのです。
そこから離れなさい。