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親子ほど年の離れたともだちに教えられたこと【岸弘之師】

こんにちは、山口県の浄土真宗本願寺派の僧侶の岸弘之です。

ともだちというとどんな方を思い浮かべますか?

普段から会う方、メールやLINEで連絡を取る方、いろいろ思い浮かべるのではないでしょうか。

ともだちでも、ともに南無阿弥陀仏を称えるともだちのことを「法友ほうゆう」と呼んでいます。

」の字には阿弥陀如来(以下、阿弥陀さま)のはたらきという意味があります。

ですので、法友とは阿弥陀さまのはたらきを共に共有するともだちということです。

私には70代後半の法友Aさんがいます。

親子以上の年齢差がありますので、「ともだち」と呼ぶにはおこがましいほどです。

その法友に「たすけられる」という言葉を通して、浄土真宗の教えについて気づかせていただきました。

Aさんとの出あい

Aさんは函館在住の方で、お寺の方ではなく自営業の方です。

山口在住の私とは年齢差もあり、地域も異なり、もともとは何の接点もありませんでした。

しかし、仏教を研究する龍谷大学の大学院で友人として出あったのです。

Aさんは大学院に入学された時点で60代半ばでしたが、お寺の関係者でもないAさんがその年齢で入学されたのは以下のような経緯がありました。

Aさんが仏教と出あった理由

もともと函館の浄土真宗寺院のご門徒でしたが、

Aさん

真宗の教えは自分にはあわないなぁ・・・。

と思っておられたそうです。

しかし、Aさんの長男さんがお亡くなりになったことをきっかけに状況ががらっと変わっていきます。

長男さんが亡くなられてからというもの、しばらくは何も手につかなかったそうです。

放心状態と言ったらいいでしょうか。

自営業をしている立場上、地域の会合にはどうしても行かなければならないこともありました。

しかし、途中でいたたまれない思いになり途中で席を立ち皆さんの見えないところで涙することもあったとか。

Aさんと歎異抄との出あい

その悲しみのどん底のなかで、ふとしたきっかけで親戚からもらった『歎異抄たんにしょう』の本を手に取ったそうです。

『歎異抄』は浄土真宗の教えが書かれた本で、親鸞聖人の言葉を直接聞いた唯円というお坊さんによって書かれた書物と言われています。

浄土真宗の教えは自分がこうしなければならないというのではなく、今のそのままのAさんを救っていきます、ということに気づかされたそうです。

Aさん

歎異抄を読み進めると、霧がすーっと晴れていくような感覚だったんですよ。

そこから浄土真宗について法話を聞くようになったそうです。

僧侶になることを志すAさん

法話を聞くなかで、Aさんは僧侶になりたいという思いにまでなられ、龍谷大学大学院に入学をされます。

その大学院在学中に得度式(僧侶になる式)を受けられました。

得度式を受ける期間、Aさんは講義をしばらく休むことになります。

そこで、私は応援の気持ちを込めて心ばかりの餞別をお渡ししました。

それは長男さんを亡くされた悲しみをご縁に仏教に出会い、函館から京都まで来て、僧侶になろうとしているAさんの姿に感銘を受けたからです。

僧侶になったAさんからのプレゼント

Aさんは僧侶になられ、また大学院に復帰されました。

その際

Aさん

岸さん、大変お世話になりました。これは記念の品です。どうぞ!

浄土真宗の聖典を頂戴し、その聖典には一筆箋が挟まっていました。

そこにはこのようにかかれてありました。

「得度御礼 法友 岸弘之様」

お世話になりました、などの文言は一切なく、これだけでした。

法友とは

以前は私にとって法友という言葉はお坊さんの友人くらいの認識でした。

しかしこの一筆箋をいただいて、阿弥陀さまの前で共に南無阿弥陀仏称える仲間であればみんな一緒だったのだと教えていただきました。

阿弥陀さまの教えの前では年齢や性別、生活してきた背景などは一切関係ありません

とはいえ、親子ほど年齢差のある私にまで法友と呼んでくださったことに胸がじーんと熱くなる思いになりました。

本当の意味で法友という意味を知ったのはこの時でした。

Aさんはこんなことも併せておっしゃいました。

Aさん

差し上げるものだけど、聖典に1ヵ所だけ線を引いたんだ。よかったら探してみて!

と。

1500ページを超える聖典の中の1カ所。

とても気になりませんか?

お聞きしてすぐペラペラとめくって探しましたが、全然見つかりません。

それから数日探したものの線の引かれた場所を探し出すことはできず、Aさんに直接聞いてみることにしました。

Aさん

あぁあれね!

『歎異抄』の中に「たすけられ」というフレーズがあるでしょう!

その『られ』の二文字に引いたんだ。

私たちは『たすかっていく」のではなく『阿弥陀さまにたすけられて』いくんだよね!」

とおっしゃったんです。

「たすかっていく」も「たすけられていく」も同じように思っていましたが、「られ」という受け身表現を考えると、方向が全く逆だということに気づきました。

私たちは阿弥陀さまによって救われていく存在なのだということです。

これはAさんだけではなく、この「私」にも向けられた言葉であり、それを法友を通して改めて再確認した出来事でした。

皆さんの周りには法友と呼べるような、ともに仏さまの教えを共有できるおともだちはおられますか?

コラム執筆者

岸弘行師

山口県在住の浄土真宗本願寺派僧侶。
救いが遠いものではなく、身近なもので生活の中にあるのだということを実感してもらえるようなお話をします。

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