流罪から赦免されたあと、縁あって親鸞聖人は関東へ移住されました。
第9章では親鸞聖人の関東で教えを説く親鸞聖人のご様子をたずねていきたいと思います。
『親鸞聖人
これには親鸞聖人の直弟子・孫弟子にあたる方々のお名前が記されています。
直弟子に書き添えられている地名はほとんどが関東のものでした。
孫弟子も多くは関東の方であったようです。
関東では大勢の方とふれ合い、熱心なご
関東で教えを伝える親鸞聖人のご様子
関東でのお住まいについて『
『親鸞伝絵』佛光寺本より
常陸国 (茨城県)に下着したまひて、下間 の小島 (茨城県下妻市)に十年居住したまふ、その後おなしき国笠間郡 稲田郷 (茨城県笠間市)といふところに隠居したまふ、幽栖 をしむといへとも道俗あとをたつね、蓬戸 をとつといへとも貴賤ちまたにある
親鸞聖人はまず茨城県下妻市に10年ほど住まわれたそうです。
その後、笠間市稲田町にお住まいを移されました。
稲田郷では静かに暮らそうとしたそうです。
しかし、いろんな人が次々と訪ねてきたため、にぎやかなことになったとあります。
関東の地にも本願念仏の道を求める方が大勢おられたのです。
親鸞聖人も出向いて教化していた
親鸞聖人は草庵でただ待っていただけではなく、ご自身が遠方へ出向いてご教化されることもあったようです。
後で詳しく触れますが、山伏
弁円は親鸞聖人が
親鸞聖人は険しい山道をひんぱんに往復していたということです。
訪れる人々を迎え入れて。
時には遠方へ出向いて。
熱心に本願念仏の道をお説きになられたのでした。
念仏者たちの誕生
親鸞聖人のご教化は関東から東北にまでおよびました。
そして、各地に念仏者たちの集団が誕生しました。
各地の門弟たちがそれぞれに仲間を増やしていったんじゃ
念仏者たちの集団は地名を冠して〇〇門徒と呼ばれています。
直弟子の
真仏上人はたびたび親鸞聖人のお書物を書写した信頼の厚いご門弟です。
直弟子の
性信師のお名前は親鸞聖人のお手紙にたびたび登場します。
その他にも
たくさんの念仏者の集まりが誕生しています。
みんなとは長い付き合いになったなぁ
念仏者たちとのつながりは関東在住の時だけではありませんでした。
親鸞聖人は後に京都にお戻りになりますが、親しい関係は続きます。
京都まで本願念仏の道を聞きに来るご門弟、ひんぱんな手紙のやりとり。
時には金品を届けるご門弟もありました。
本願念仏の道を中心として深いつながりが育まれていったのです。
背景には親鸞聖人の態度も影響しているんじゃないかと思います。
『
専修念仏のともがらの、わが弟子、人の弟子という相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。
親鸞は弟子
私には弟子は一人もおりません。
みんな共に阿弥陀さまの弟子です。
お念仏の道を共に歩む仲間です。
分け隔てなく共に歩もうとする態度に人々は惹かれていったと想像します。
山伏弁円の回心
先ほど山伏弁円が親鸞聖人の殺害を企てたことに触れました。
『親鸞伝絵』を手がかりにもう少し詳しくお話ししておきたいと思います。
常陸国で本願念仏の道を説き始めた親鸞聖人。
大勢の方がお念仏の道を聞きに集まったそうです。
するとその評判を聞いて腹を立てた者がいました。
それが弁円です。
弁円は親鸞聖人を殺害しようと企てます。
そして、親鸞聖人が
山道で待ち伏せをして殺害しようとしたのです。
ところがどうしたわけか何度待ち伏せをしても出会うことができません。
行き違いになることを不思議に思います。
そして、「ならば直接会ってやろう」と親鸞聖人のお住まいに押しかけました。
弁円が押しかけると親鸞聖人は何気ない様子で出てこられたそうです。
おそらく穏やかな表情で弁円を迎え入れたのでしょう。
弁円はお顔を見るとたちまちに殺害してやろうという心が消えました。
後悔の涙までこぼれてきました。
そして、身につけていた武器を捨て去り、本願念仏の道に帰依されたとあります。
弁円は
人が人に何かを伝える際には言葉を使うのが便利です。
伝道やご教化も主に言葉を介してなされます。
しかし、弁円の回心を味わってみれば、教えに生きる者の姿(態度)にも仏法を伝える力があることを知らされます。
口だけでなく、態度で伝わることもある。
身の引き締まるようなエピソードです。
共にお浄土へ生まれる
明法房のことをもう1つお話しさせていただきます。
明法房は親鸞聖人よりも先に亡くなられました。
亡くなられたことを聞いた親鸞聖人のお言葉がお手紙に記されています。
『親鸞聖人御消息集』より
明法房がご往生なさったことを詳しく聞けて嬉しいと仰っています。
明法房の死が寂しくなかったわけではないと思います。
しかし、念仏者となった明法房は間違いなく阿弥陀さまのお浄土へ往生されたと確信しておられたのでしょう。
阿弥陀さまのご本願(第十八願)は、念仏往生の願とも呼ばれます。
明法房の臨終はお念仏を申しながらのご臨終であったと想像されます。
自分を殺害しようとした明法房が念仏者として生涯を過ごした。
共に念仏し阿弥陀さまのお浄土へ生まれていく者として生き抜かれた。
その明法房のお姿を「うれしい」と表現なさったんだと思います。
親鸞聖人のお言葉には「お浄土でまたお会いしましょう」というおこころを感じます。
明法房の人生を尊ぶおこころも感じます。
親しみと尊びを込めて見送られたのではないでしょうか。
私たちは親しい者と必ず別れていかなければなりません。
その別れをどう受け止めるか?
寂しさや悲しさも当然湧いてきます。
ただ、共にお浄土へ生まれる身といただく者はそこにもう一つの心が与えられている。
親鸞聖人の明法房を見送るお言葉にそのように感じます。
合掌
さて、第10章では親鸞聖人が京都へ戻り執筆活動に励まれた様子を紹介します。
主著である教行信証の推敲も晩年まで取り組まれていました。
- 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』本願寺出版社 2004年
- 『真宗史料集成』第1・4巻 同朋舎出版 1983年。
- 『真宗新辞典』 法蔵館 1997年 第8刷。
この記事を書いた人
香川県在住の真宗興正派僧侶。本山布教使。
ゆっくりとやわらかな口調のお話で、お念仏の教えと身近な話題とのつながりがわかりやすいと評判。
待っているばかりではなかったんじゃよ