昔、讃岐には「
妙好人とは、浄土真宗において在家でありながらも特別に信心の篤い者を指した語である。
庄松さんは、香川県の小さな農家に生まれ、縄ないや草履づくり、子守や寺男として働いていた。
その性格はとてもまっすぐで、立場や肩書に捉われることなくいつでも自分の思うように行動をした為、苦悩も多かったのだという。
しかし、役僧の周天の導きによって次第に信心を深め、晩年には様々な法座へ招かれるほどの存在となった。
死後も
「墓は要らない、そこに儂は居らん」
と言って墓は立てさせなかった。
しかし庄松さんとともに生きた人々はその有難さを忘れることが出来ず、死後10年の後に慰霊ではなく感謝の証として墓を建てた。
その教えは「庄松ありのままの記(国会デジタルコレクション)」という本にまとめられており、皮肉ながらもあたたかい慈悲を含んだ庄松さんの言葉は今もなお真宗門徒に愛され、その胸に息衝いている。
まさに、人々の想いに依って今日まで繋がれてきた存在といえよう。
だが、その想いも月日とともに薄れ、消えかけている。
心を震わせ、響く言葉
以前、どこかで
「言葉は振動だ」
と聞いたことがある。
音波という意味もあるけれど、もう一つ。
「心を震わせて響く」のが言葉なのだという。
感動の無い言葉はすぐに抜け落ち、大きな感動の下に吐かれた言葉は深い振動とともに心へ響くのだそう。
震えた心が、また人の心を震わせる。
感動が感動を呼ぶ構図である。
しかし、人は「感動」ではなく「知識」を語ることがある。
すると、想いは薄れ、形だけが残り、文化は衰退していく。
頭の中は 本の山 永遠に読み続ける 悟ることなく
ポープ『愚人列伝』
庄松さんは、あまり賢い人ではなかった。
だからこそ、吐く言葉は純粋で、人を動かしたのかも知れない。
そんな庄松さんは、今年が150回忌。
庄松さんに会ったことのある人はもう何処にもいないであろうこの時代に、私たちは出遇った。
それはきっと、人を伝い、心を介し、存在を紡がれて来たことの証と言えるだろう。
「大量生産・大量消費」が見直され、「SDGs(持続可能な開発目標)」が掲げられるようになったこの時代に、モノだけでなく「想い」を伝えるということも、私たちは考えていかなければならないのかも知れない。
この記事を書いた人
香川県在住の真宗興正派僧侶。
若者視点から見た、専門用語によらないシンプルでわかりやすい語り口が特徴です。
異業種との交流も広く、多視点から見た現代社会に活きる仏法を得意としています。