ナシなのにアリ!?忌み言葉から考える知足の心
こんにちは 真宗興正派の千葉憲文です。
みなさんは「有りの実」って聞いたことがありますか?
聞いたことないよ、という方も多いんじゃないでしょうか。
実は「有りの実」というのは果物の「梨」の別名なんです。
まさに今、9月頃が旬の果物です。
しゃきっとした歯ざわりと上品な甘さ、たっぷりの果汁がたまりません。
梨が有りの実と呼ばれる理由
なぜ「梨」が「有りの実」と呼ばれるのか。
「梨(ナシ)」は「無し」と発音が同じです。
「無し」は物が無くなる、お金が無くなる、という使い方をします。
ですから「ナシという音には悪いイメージがあるので言いかえよう!」となって「無し」の反対の「有りの実」という別名がついたそうです。
こういう言いかえを忌み言葉と言います。
おつまみの定番「あたりめ」という呼び方も忌み言葉と言われています。
「するめ」(スル)では損をするイメージがあるから「当たり」に言いかえたそうです。
足ることを知ろう
さて、有りと無しの話に戻りますね。
梨をわざわざ言いかえるぐらいですから、人間は有り無しが気になる生き物なんだと思います。
才能がある人を見てうらやむことがあります。
その時は、自分には才能が無いと思っているわけです。
物やお金を持っている人に対しても同じです。
ねたみの心が沸くことがあります。
有り無しが気になって、心がざわざわしているということです。
お経典に「知足」という言葉が出てきます。
「足ることを知る」と読んで、「満たされているものに目を向けよう」という意味です。
「無い、無い」となげくばかりでは欲求不満になってしまいます。
「有る」という思いが強いと傲慢になりかねません。
そこで、満たされているものに目を向ける生き方を教えてくださったのです。
有る無しを超えて
今、ここに、いる、私。
その私には沢山の背景がつまっているはずです。
いのちのつながりの中に。
出会った人たちの中に。
共に生きる人たちの中に。
満たされている背景に思いを巡らせてみれば、ただここにいるだけで何だか尊い気がします。
仏さまはそんな尊さを知らせようとして「知足」と教えられたんだと思います。
「ナシ」と呼んでも「有りの実」と呼んでも、梨の美味しさは全く変わりません。
そんな私に出遇いたいものです。
合掌
この記事を書いた人
香川県在住の真宗興正派僧侶。本山布教使。
ゆっくりとやわらかな口調のお話で、お念仏の教えと身近な話題とのつながりがわかりやすいと評判。