このコロナ禍の中で「死」に関する言説がいくつか目にとまりました。
いずれも死から目を背けた生き方を問うもので、山崎正和氏は現代人が「死を直視する強靭さを失ってきた」(中央公論7月号)と指摘しておられます。
ウイルスという目に見えない病気で突然に、理不尽に、命を奪われる。
その現実に私たちが抱える「死」という課題が浮かび上がってきたのだと思います。
生死一如
仏教には「生死一如」という言葉があります。
生と死を分けるのではなく表裏一体とする見方です。
生きているからこそ死が訪れるし、死を見つめる時は生きている時です。
生と死は切り離すことができません。
そうであれば、生のみを見つめていたのではありのままの自分を見失っていることになります。
ただ正直に言えば、「死」と聞けば恐怖を覚えますし、あまり考えたくない気持ちもあります。
死に教えられたこと
20年前に亡くなった友人がいます。
彼の遺体に触れた時、とてもとても冷たかった。
今でもその冷たさは手に残っています。
親しい者を失った寂しさは時が経っても消えることはありません。
今の私を見たら何と言うだろうかと考えることもあります。
しかし、直接声を聞くことはできません。
生は一度きり。
彼の死は私にそれを教え続けています。
今を生きるために
清沢満之師はこう仰ったそうです。
生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。
我等は生死を並有するものなり。
清沢満之
生死一如の教えを端的に表してくださった言葉だと思います。
不思議なことですが生死を並有すると聞かせてもらうと、いつ尽きるとも分からぬ今生が少し愛おしく思えます。
二度とない私。
ありのままの自分を知らされた時、今を生きる力が湧いてきました。
合掌
この記事を書いた人
香川県在住の真宗興正派僧侶。本山布教使。
ゆっくりとやわらかな口調のお話で、お念仏の教えと身近な話題とのつながりがわかりやすいと評判。