第5章でご紹介したとおり、吉水の法然上人のもとには多くの人が集まり熱心に本願念仏(専修念仏)の道を歩んでいました。
しかし、中にはお念仏の教えを誤解する者もあったようです。
そして、困った振る舞いをする者たちがあらわれたことが、念仏者の弾圧へとつながっていったのです。
親鸞聖人のご生涯第6章では念仏者たちが弾圧された承元の法難についてご紹介します。
承元の法難 (建永 2年の法難)とは
承元の法難とは、
念仏者が大事にしている阿弥陀さまの願いは万人に対して向けられた救いです。
しかし、その願いを自分の都合の良いように解釈してしまった者もいたようです。
念仏さえしていれば、どんなことをしても救いの障りにならないんでしょ!
と、本願念仏の教えを誤解して、平気で悪事を犯す人も出てきました。
念仏者の取り締まり
こうした状況を背景として、吉水に集まった人々を取り締まる動きが起ります。
大勢の人が集まるのを快く思わない人もいたのでしょう。
お念仏の教えに批判的な人たちは専修念仏の禁止を朝廷に訴えました。
法然上人は門弟たちに他の仏教徒への批判や、悪事をはたらくことを禁じます。
弟子たちには『
法然上人と親しくしていた貴族
ところが事態は急変し、建永2年(1207)年2月、専修念仏停止の命令がくだります。
急変したきっかけは、後鳥羽上皇の留守中に宮廷の女官が勝手に法然上人の門下に加わったことではないかといわれています。
藤原定家の日記『明月記』2月8日・9日を見ると念仏者の逮捕・拷問もあったようです。
大変厳しい弾圧を受けたことがうかがえます。
建永2年は10月に改元されて承元元年になりました。
親鸞聖人は晩年にこの法難を承元元年のこととして回想しておられます。
承元元年はわしが35歳の時じゃった。
念仏の弾圧はすさまじいものだったたんじゃ。
そこで浄土真宗ではこの法難を
越後へと流罪になった親鸞聖人
承元の法難によって親鸞聖人は越後へ流罪になります。
記録が『
法然上人ならびにお弟子七人、流罪。
またお弟子四人、死罪におこなはるるなり。
聖人(法然)は
土佐国 (幡多 )といふ所へ流罪、罪名藤井元彦 男云々、生年七十六歳なり。親鸞は
(筆者補注)越後国 、罪名藤井善信藤井善信 云々、生年三十五歳なり。
7人が流罪、4人が死罪というとても重い処分を受けています。
法然上人は藤井元彦という俗名をつけられて土佐国(高知県)へ流罪。
親鸞聖人は藤井善信という俗名で越後国(新潟県)へ流罪。
法然上人75歳、親鸞聖人35歳の時のことです。
これが親鸞聖人とお師匠である法然上人との今生の別れとなりました。
親鸞聖人は晩年にこの時の怒りをつづっています。
罪を考えず、みだりがはしく死罪にした。
あるいは僧を改めて俗名をつけ、
(『
不当な処分だと思っておられたようです。
ただ、この法難によって本願念仏の教えは新たな広がりをみせていきます。
『
そもそももしも法然上人が流罪に処せられることがなかったならば、私もまた越後の地へ行くことはなかったでしょう。
もし私が越後の地へ行くことがなかったならば、どうしてその地におられる方々に本願念仏の教えを伝えることができたでしょうか。
これもまた仏のご恩、お師匠さまのご恩のいたすところです。
(筆者意訳)
と記されています。
親鸞聖人にとって法難は理不尽なものであったに違いありません。
しかし、逆境を縁として本願念仏の教えは新たな土地での広がりをみせたのでした。
本願念仏の教えは悪事をすすめてはいない!
先ほど法然上人のもとに集まった人の中に、心得違いの者がいた。
そうお話ししました。
本願念仏の教えは「誰一人もらさず救う」という願いが根本にあります。
救ってくれるのだから何をしてもいいでしょ!
悪いことをしても、お念仏さえしていたら大丈夫!!
このように誤解する人が出てくるのも無理のないことかもしれません。
今でも「浄土真宗は
しかし、本願念仏の教えは決して悪事をすすめるものではありません。
もう一度言います。
悪事はすすめていません!!
薬があるからと毒を飲むことはない
親鸞聖人のお手紙に毒と薬の例えが出てきます。
毒も消えていないのにますます毒を勧める。
「薬があるからどんどん毒を飲みなさい」という。
そんなことあるべきではありません!
(『親鸞聖人御消息集』筆者意訳)
毒というのが人間の抱える煩悩です。
薬というのが本願念仏の教えです。
本願念仏の救いがあるからといって、自分から進んで煩悩のままにふるまうのはおかしいということです。
煩悩を抱えた悪人であるという自覚。
その自覚は自分のわがままを正当化するためのものではありません。
どこまでも煩悩が消えない自分の姿を深く恥じる心のこもった自覚です。
親鸞聖人はご自身のお名前を「愚禿親鸞」と書かれています。
「愚かにして身なり一つ整っていない私」という名告りです。
親鸞聖人は消そうとしても消えない煩悩を抱えた悪人である私。
その姿を深く深く見つめられたのです。
そして、そんな私の救われていく本願念仏を喜ばれたのです。
薬があるからといって毒をすすめるのか?
親鸞聖人の問いをよくかみしめたいものです。
合掌
さて、続いて第7章では越後へと流罪になった親鸞聖人のご様子と親鸞聖人のこどもたちについてご紹介します。
- 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』本願寺出版社 2004年
- 『現代の聖典 親鸞書簡集 全四十三通』細川行信・村上宗博・足立幸子 法蔵館 2002年
- 『親鸞教義とその背景』村上速水著 永田文昌堂 1996年 第10刷
- 『日本史年表 第四版』歴史学研究会 岩波書店 2004年 第4刷
- 『訓読明月記』第2巻 今川文雄訳 河出書房新社 1977年。
- 『親鸞』平松令三著 吉川弘文館 1998年。
この記事を書いた人
香川県在住の真宗興正派僧侶。本山布教使。
ゆっくりとやわらかな口調のお話で、お念仏の教えと身近な話題とのつながりがわかりやすいと評判。
どんな者でも選ばず・嫌わず・もらさず救う