こんにちは、浄土真宗本願寺派布教使の保田正信です。
現代では布教というと、愛してやまない作品や、アイドルやキャラクターの素晴らしさを広める「推し活」の意味で目にすることが多いと思います。
では、そもそも布教という言葉にはどんな意味があるのでしょうか?
布教の意味
布教という言葉は「布」と「教」という字で構成されています。
「布」という漢字を「布く」と読む場合、すみずみまで広く行き渡らせるという意味ですので、「布教」は教えを広く行き渡らせるという意味の言葉です。
そして、その「教え」とは本来「仏さまの教え」、すなわち「仏教」をさします。
「布教」の元々の意味は、仏さまの教えを広く行き渡らせ、みんなに知らせることなんですね。
布教する演劇オタクの友人
私には演劇オタクの友人がいます。
その人は劇場に観に行くのが好きなのですが、好きな演劇のDVDが出ると3枚以上同じDVDを買います。
私が「何故そんなに沢山同じDVDを買うの?」と聞くと
- 自分が観る用
- 保存用
- 布教用
なのだそうです。
演劇のDVDは映画のものより値段が高いのですが、それを3枚買う時もあれば、4~5枚かそれ以上買う時もあるというのだから驚きです。
私が
「そんなに同じDVDを買うというのは理解に苦しむね」
と言うと、その友人は私に
「あなたの本棚にも似たような本が沢山あるし、私からすれば値段も異常に高い。理解に苦しむのはこっちだ」
と言いました。
確かに、そう言われてみると、私の本棚には『浄土三部経』や『正信偈』などの同じ本の解説書が沢山あります。
正直言うと、内容の大半は同じです。(もちろん著者毎の特徴があるから買ってるんですけどね!)
しかも専門書なので値段も高いのです。
その人が言うことは実にもっともなことです。
投げたブーメランが返って来たようで、人の趣味にとやかく言うものではないなと反省しました。
また、その人に
「自分で観る用と、予備としての保存用があるのはわかるが、布教用って何?」
と聞くと、
「まず、保存用は保存用であって予備ではない」
と叱られた後、
「布教用は仲間を増やすために買う」
と教えられました。
布教用は貸出したり、時にはあげたりして、観てもらい、演劇を好きになってもらうために買うのだそうです。
そして、好きになってくれた人とは、一緒に劇場に行ったり、語り合ったりするのです。
その人にとって「布教」は自分自身が感動し、素晴らしいと思えるものの存在を他人に伝えて知ってもらうこと。
そして、同じ喜びを共有できる仲間を増やしていくということなのです。
お坊さんの行う布教
私たち布教使がしている「布教」も、実は同じようなことをしているのです。
仏教についての情報を伝えることや、教義を教えることだけで「布教」が成立するのかというと、少し違うように思います。
もちろん、情報・教義を知ってもらうことはとても大切なことです。
しかし、それだけでは
「へ~、仏教ってそういう教えなんだね」
「知識を得て、また一つ賢くなったなあ」
というだけの感想で終わってしまうかも知れません。
それは「教育」であって、「布教」ではありません。
教えを聞いた人が、その教えをよろこべるようになったり、深く感動したり、その教えに沿った生き方ができるようになったりすること。
つまり、その人自身の生き方に変化がもたらされることこそが「布教」なのではないでしょうか。
しかし、これがなかなか難しいのです…
善導大師は『往生礼讃』の中で、このようにお示しです。
自信教人信 難中転更難
大悲伝普化 真成報仏恩みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。
『浄土真宗聖典 註釈版 七祖編』/676頁
大悲をもつて伝へてあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるになる。
自分自身が仏教を信じ、人に教えて信じさせることは、まさに難中の難といわれ、とても難しいことなのです。
なぜ難しいのでしょうか?
それは、信じることや教えることは「私がすること」ですが、相手が信じるかどうかは「相手まかせのこと」だからではないでしょうか。
相手の心を変えることは難しい
イギリスの諺にこのようなものがあります。
馬を水辺につれていくことはできても、水を飲ませることはできない
You may lead a horse to the water, but you can’t make him drink.
馬が水を飲む時は、馬自身ののどが渇いて水を飲む気になったときです。
何事も、本人にその気がないのに周りが強制しても無駄なのです。
布教使が布教によって相手の心を自由に変化させることはできません。
もし、布教が信仰の強制などということになってしまえば人権侵害になってしまいます。
そうなると、結局、布教使にできることは、先程「それじゃ布教じゃないよ」と書いた、情報を伝え教義を教えることだけということになってしまいます…
ああ、なんということでしょう…
布教使には本質的には布教はできないのか…
しかし!ここに一筋の光があります!
布教するのは仏さま
浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、先に紹介した善導大師のお言葉について、わざわざ智昇法師の書かれた書物から引用しなおして読みかえておられます。
自信教人信 難中転更難
大悲弘普化 真成報仏恩みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きなかにうたたまた難し。
教行信証『浄土真宗聖 註釈版』261頁 411頁
大悲、ひろくあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるに成る
ん?さっきと何が違うの?
と思われるかも知れませんので、元の文章と比較してみましょう。
元の文章 | 大悲をもつて伝へてあまねく化する |
親鸞聖人読みかえの文章 | 大悲、弘くあまねく化する |
文章で見るとちょっとした違いですが、その意味するところは大きく違います。
元の文では、仏さまの大きな慈悲のお心を私があまねく伝えて教化するという意味の文章です。
それに対して、親鸞聖人が引かれた文では仏さまの大悲がひろくあまねく教化していく、という意味として読めます。
つまり、この二つの文では、教えを伝える主語が「伝える人」から「仏」に替わっているのです。
作品自体が持つ力が重要
先にお話しした、演劇好きの方の演劇布教が成功する時のことを考えてみるとわかり易いと思います。
演劇好きの人の布教が成功する時はどんな時でしょうか?
それは、作品自体が面白く、観る人に響いた時です。
どんなに勧めても、面白いと思えないものを好きになることはありませんし、押しが強いだけで演劇布教が成功することはないのです。
演劇布教が成功する時は、必ず演劇の側にその人を魅了する力があるのです。
仏教自体が伝わる力を持っている
親鸞聖人もそう思われたのでしょう。
布教と言っても、私が伝えるから伝わるのではない。
仏教は仏教自体が伝わる力を持っているのだから、私が伝えたのではなく、仏教が仏教自身の力で伝わったのだということです。
つまり、布教の主体は仏さまなのです。
私たち布教使は布教をしますが、その実、布教をしていません。
本当に布教をしてくださったのは、2500年前にこの世に登場し、説法してくださったお釈迦さまです。
その説法が今も水面を伝わる波紋のように伝わり続けているのです。
布教使はその波を伝える水分子のような存在なのではないかと思います。
理想の布教使とは
私が思う理想的な布教使は、透明な布教使です。
わかりやすく、楽しく、真実を真実のままに伝え、お話を聞いたあとには布教使の名前も顔もすっかり忘れてしまって、
「ああ、仏教ってありがたいなあ。南無阿弥陀仏。」
というものだけが残る。
それが、本当に素晴らしい布教使であり、最高の布教なのだと思います。
私にはまだまだたどり着けないところです。
最後に、親鸞聖人がお弟子さまに語られたという言葉をご紹介いたします。
親鸞は弟子一人ももたず候ふ。
そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。
弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。
歎異抄『浄土真宗聖典 註釈版』835頁
この記事を書いた人
浄土真宗本願寺派金剛山一念寺副住職
身近な話題を題材に笑いも含めて、真宗の教えをわかりやすく伝える。
直七大学でも「0からの浄土真宗」の講師を務める。
私には、弟子というような人は一人もいません。
私が人にお念仏をもうさせたならば、その人を弟子と言うこともできましょうが、私は人にお念仏をさせたことなどないのです。
阿弥陀仏がその人にお念仏もうさせたのです。
その人のことを、私の弟子だなどと言うことは、とんでもなくあさましいことではありませんか。