こんにちは、真宗興正派の香川正修です。
主人公が金融の世界で正義を貫く痛快なドラマ「半沢直樹」の新シリーズが始まりましたね。
その決め台詞「やられたらやり返す、倍返しだ」は流行語になりました。
劇中なら倍返しをするのは痛快ですが、現実の世界でやられたら倍にしてやり返すというのは恐ろしいことです。
怨みの恐ろしさ
お釈迦さまの一族である釈迦族は、コーサラ国に攻め滅ぼされました。
国王の、母の出身である釈迦族から受けた仕打ちへの怨みに端を発していたそうです。
それを目の当たりにされたお釈迦さま、怨みの持つ恐ろしさを実感されたことでしょう。
現代でも、国家間で怨みを倍返ししているような報道を目にします。
怨みはどこから
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない 。
『ダンマパダ(真理の言葉)』
例えば、
「あの人があなたのことをこんな風に言っていたよ」
と聞いた時、自分の思いに合わないと、
「私のことをなぜそんな風に思っているんだ」と怒り、ついには怨みをいだきます。
昨今はSNSなどの発言から怨みが生じ、事件となることも珍しくありません。
「かれは、われを〇〇した」という思いにならなければ、怨みをいだくことはありません。
いわゆる無我の境地になれれば良いのですが、それは難しいことです。
また、憎み怨むような相手に会わなければよいのですが、それもなかなか難しいことでしょう。
怨みにとらわれそうな時は、目を向ける方向を変えてみてはどうでしょうか。
恩に目を向ける
「半沢直樹」で香川照之さん演じる大和田は、前回、半沢に不正を暴かれ土下座させられました。
さぞかし怨みをいだいていることでしょう。
しかし、今回、不祥事を許してもらった頭取に対しては「施されたら施し返す、恩返しです」と応えました。
「恩」について、心に残っている言葉があります。
「恩を返すというけれど、返し切れないからご恩というのでしょう」
「わかるはずの無いほどの御恩をいただいている。わかるのはそれだけ」
日本人は恩返しを大切にします。
物をいただいたら、その価値と同等か、それ以上のものをお返ししようとします。
しかし、形のないものにはどうお返しすればよいでしょうか。
また、恩をいただいていると気付けば少しなりともお返しすることができるのでしょうが、ご恩は気付かないことが多いものです。
恩という字は、因と心からなります。
因は原因(ものごとのおこり、もと)という言葉に使われています。
ものごとのおこりを訪ねることで見えてくるこころ、めぐみが「恩」でしょう。
両親、ご先祖はもちろん、出遇ってきた方、食べてきたもの、見てきたもの、すべてが私を作り上げているご恩です。
恩を返すということ
浄土真宗では、親鸞聖人のご法事である報恩講を勤めます。
お念仏によって浄土へ生まれるという素晴らしい生き方を教えられ、返し切れないご恩をいただいたという思いが、報恩講を七百五十年以上続けてきた因なのでしょう。
「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし師主知識の恩徳もほねをくだきても謝すべし」
訳:阿弥陀如来よりいただいた大悲のご恩は、返し切れないご恩です。身を粉にする思いで報じましょう。お釈迦さまをはじめとしてみ教えを伝えてくださった善き人々のご恩も、骨をくだく思いで感謝しましょう。
(親鸞聖人『正像末和讃』)
その人を思いを受け止める、そして、引き継いでいくのが一番の恩返しなのかもしれません。
今後、大和田常務が怨みを返すのか、恩を返すのか、気になるところですね。
私たちはご恩に対して倍返ししましょう。
それがよろこびにつながっていくことでしょう。
この記事を書いた人
香川県在住の真宗興正派の僧侶。本山布教使。
住職としての活動以外にもアートプログラム「よるしるべ」の開催に携わるなど、地域活性化に協力する中で、仏教を身近に感じてもらえるよう努めています。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。
『ダンマパダ(真理の言葉)』