こんにちは、浄土真宗本願寺派布教使の舟川智也です。
南無阿弥陀仏という言葉を耳にしたことがあると思います。
しかし、言葉の意味がわからないと感じている方も多いのではないでしょうか。
意味がわからなかったら口に出して
まして、この南無阿弥陀仏という言葉は宗派によってもその意味や見立てが違います。
本記事では浄土真宗で称えられる南無阿弥陀仏にはどんな意味があるのかをわかりやすく解説します。
動画で見るなら、こちらをどうぞ。
南無阿弥陀仏とは
実は南無阿弥陀仏という文字を読んでみても、意味がわからないのは当然のことです。
もともとはナモアミタブッタというインドの言葉の音をとって、その音に漢字を当てはめたものです。
ですから、この漢字をいくら眺めてもなかなか意味を理解することはできません。
まずは南無阿弥陀仏を南無と阿弥陀仏に分けて考えてみましょう。
そして本記事ではこの南無という言葉に注目して解説いたします。
後半の阿弥陀仏についてはこちらの動画で解説しています。
南無阿弥陀仏の意味を理解するためには前半の南無という2文字の解釈の仕方がポイントとなります。
この南無という言葉の解釈が宗派によって違うのです。
南無は帰命という意味
南無の元となったナモはインドの言葉です。
その後中国の言葉に翻訳された時に、帰命(きみょう)という言葉に訳されました。
しかし、帰命と言われてもこれはこれで意味がわかりません。
帰命とはいったいどういう心でしょうか?
南無の理解①帰投身命
まず、帰命というのは帰投身命(きとうしんみょう)という心という受け止めがあります。
帰投身命とは全身全霊でお願いをしていくのだという捉え方です。
南無阿弥陀仏とは、全身全霊で命をかけて
「どうか阿弥陀さまお助けください!」
とお願いしている姿が南無阿弥陀仏だという、このような見立てです。
まるで穴に落ちた人が助けを呼ぶようなあり方
このように熱心にお願いしている様子は、例えばこのような話を想像するとわかりやすいかもしれません。
つまり、これは「助けてくれ!」と私の方からお願いをしていかなければ、向こう側からは気付かれることがない。
だから、お念仏というのは何度も何度も言っていくんだということなんです。
何度も何度も言い続けたらいつか気づいてくれる、というような考え方ですね。
道理としてはよくわかります。
じゃあその助けはいつくるのでしょうか?
阿弥陀さまの助けは、臨終来迎(りんじゅうらいごう)と言われるように命の終わりに挑んだ時にお迎えに来るのかどうかが決まります。
清く正しく美しく生きて、お念仏をしっかりなされた方が命を終える時に、阿弥陀さまがお迎えにきて極楽浄土に連れて行ってくれるというのです。
そうなると、阿弥陀さまがお迎えに来るのはこのような人たちになりますね。
- 清く正しく美しく生きた人
- 心の底からお念仏を喜んだ人
私のところにお迎えが来るのかどうかは、亡くなるその瞬間までわからないんですよ。
そうすると、この考え方にたってお念仏をする限り、その心は不安で不安で仕方ないんじゃないかなと思うのです。
だってどうなるかわからないことを一生懸命お願いしているわけですから。
そんなときって不安じゃありませんか?
例えば受験の時に「どうか合格しますように!」とお願いする時の心の中って、不安で仕方ないのではないでしょうか?
帰投身命という心持ちで称える南無阿弥陀仏と念仏する姿はそのような一生懸命に頼みをしている姿だと言われます。
でもこれは浄土真宗の教えとは違った考え方であります。
南無の理解②帰せよの命・帰順勅命
浄土真宗ではこの帰命ということばを帰(き)せよの命(めい)だと受け止めます。
帰せよの命とは阿弥陀さまが私に向かって本願の心に帰依してくれよと呼びかけてくださる声なのだと受け止めるのです。
阿弥陀さまの方が、私に呼びかけてくださっている声なのだと言われるんですね。
そもそも私が唱えるのとは違って、仏様の声ですから称える主体からして違うのです。
私が頼んでいくのではなくて、阿弥陀さまが私に呼びかけてくださっている声が南無阿弥陀仏なんだと言うのです。
これを昔から本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命(ちょくめい)という言い方をしますが・・・
これも言葉が難しくて意味がわからないですよね。
このお心を京都女子大学の創設者・甲斐和里子さんがわかりやすく歌ってくださっております。
み仏を 呼ぶ我が声は
み仏の 我を喚びます
み声なりけり
甲斐和里子
南無阿弥陀仏と申しているその声は確かに私の声です。
しかし、その私の声がそのまま阿弥陀さまがこの私を呼んでくださっている声になっているのだ、と言うのです。
まさにこの本願招喚の勅命、帰せよの命という心をうたった詩なのです。
南無阿弥陀仏というのは阿弥陀さまがこの私に呼びかけてくださっている声なんだといい、
もう何も心配することはないよ。
あなたが頼まずとも、私の方から出向いて必ず救いますよ。
われにまかせよ。
このように阿弥陀さまが私に向かって呼びかけてくださっている声だというのです。
またこの呼び声をそのままに受け止め、喜んだ姿を帰順勅命(きじゅんちょくめい)といい、阿弥陀さまの勅命にしたがった姿だと受け止めます。
阿弥陀さまの「何も心配することはない」という呼び声を聞いて、「あぁ、そうなんですね。」と頷いている姿がそこに見いだされます。
不安の中に私が一生懸命お願いして助けてもらうのではなく、浄土真宗では助けてもらった安心の心の中に称えるのが南無阿弥陀仏なのだと受け止めるのです。
阿弥陀さまの木像に現れる違い
この南無阿弥陀仏の受け止め方の違いは阿弥陀さまの木像の形にもはっきりとあらわれています。
他宗の阿弥陀さまの木像は足が少し前後に出されていることがあります。
これは今から助けに行くという姿です。
助けてくださいというお願いに対して、今から助けに行くよという姿と言われています。
それに対して、浄土真宗の阿弥陀さまの足は揃っています。
これはもうここまで来ているよという表現なのです。
今から助けにいくんじゃない。
今もうあなたの所まで来ていますよ。
だからもう何も心配することはありません。
このように阿弥陀さまが出向いてくださっている姿が、両足揃いのお姿だといわれます。
私が願わずとも、もう仏様の側がもうこれで大丈夫だとおっしゃっている状態です。
私の救いの手の中にあなたの命はあるんですよ。
このように阿弥陀さまが私に向かって呼びかけてくださっている声が南無阿弥陀仏のお念仏でありましたと受け止めるのです。
南無阿弥陀仏は親の呼び声
南無阿弥陀仏は親の呼び声という言い方もよくされます。
そのことがよく分かる私が体験したエピソードをご紹介します。
ある夜、私と妻やふたりの娘と一緒に寝ておりました時のこと。
妻が夜中にトイレに出ていきました。
娘の1人は変化に敏感で、母親が布団からいなくなったことに気づいて目が覚めたようです。
隣で寝ているはずの母親がいない。
娘は慌てて廊下に飛び出して、「おかあさん!おかあさん!」と叫びました。
すると、妻は慌ててトイレから戻ってきて娘をギュッと抱きしめてこういいました。
「お母さんここにおるよ、お母さんここにおるよ、どこにもいってないよ、大丈夫よ。」
母親に抱きしめられて安心した娘から漏れた言葉は
「おかあさん」
の一言でした。
親の名のり
昔から本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命(ちょくめい)という言い方で伝えられてきた阿弥陀さまの呼び声とは、
「お父さんだよ、お母さんだよ」
という名のりと近しいと言われます。
親というのは普段は自分の名を名乗ることはありません。
どちらかというと、「あれをしなさい、これをしなさい」と親は子供の名前を呼ぶことの方が多いと思います。
しかし、このこどもに安心を与えようという時には、親は自分自身の名を名乗って安心を届けていくのです。
母親「お母さんここにおるよ」
という声を聞いてこどもが安心するのと同じように、南無阿弥陀仏は
もう大丈夫だよ、あなたを救う親がここにいるよ
と、阿弥陀さまの方からこの私にむかって、安心の呼びかけをしてくださっている言葉なんだということです。
そして、「ああそうか、ここにこの私のことを救ってくださる仏さまがおったか」と、安心の喜びの中に私の口から漏れ出てくる言葉が南無阿弥陀仏という言葉なのです。
言うならば、母が「お母さんここにいるよ」と言った言葉が帰せよの命ということ。
その声を聞いて安心した子どもの口からこぼれ出た「お母さん」の一言が帰順勅命の姿という訳です。
浄土真宗のお念仏は安心の中で称える
浄土真宗のお念仏は不安の中でどうかお助けくださいと仏様にお願いをする姿ではありません。
お念仏は阿弥陀さまが呼び声となって私のもとにきてくださったお姿であり、今ここで救われている安心と喜びの表現が南無阿弥陀仏なのです。
コラム執筆者
福岡県在住の浄土真宗本願寺派の僧侶。
法話YouTubeチャンネル「みんなでおてらいふ/両徳寺」を運営
聞く人の共感を呼び起こす、穏やかな語り口の法話が人気H1法話グランプリにも出場
原っぱで遊んでいた人が、原っぱにあった大きな穴に落ち込んでしまった。
パッと上を見上げると高さ3mぐらいあって足をかけるところもない。
どうにも自力で脱出することは難しそうであるという時、穴に落ちた人は大きな声で助けを呼ぶ。
「助けてくれー!助けてくれー!」
そう叫んでおりましたら、その叫び声に気づいた人が助けてくれる。
そうやって助けてくれる人に気づいてもらうためには、叫び続けるしかない。