こんにちは、天台宗僧侶の松本量文です。
「お寺の修行といえば?」
と聞くと、多くの方が「座禅」と答えると思います。
お寺の印象として一番にイメージされると思いますし、お堂の中でお坊さんたちが座っている光景が誰しも頭に浮かぶのではないでしょうか。
この「座禅」という言葉を漢字変換すると、実は「座禅」と「坐禅」という2通りの漢字表記が現れます。
この2つの言葉の意味は似ているようで、微妙に違いがあるのです。
本記事では「座禅」と「坐禅」の違いについて解説をします。
漢字で見る「座禅」と「坐禅」の違い
まずは「座」と「坐」の漢字の意味を比べてみましょう。
ざ【座】
読み方:ざ
- 座る場所。座席。「—を占める」「—に着く」
- 地位。「妻の—」「権力の—」
- 多くの人が集まっている席。集会の席。また、その雰囲気。「—に連なる」「—がさめる」
- 座る場所に敷く畳・円座・しとねなど。昔は、部屋の中は板敷きで、座る所にだけそれらを敷いた。
- 物を据えておく場所。台座。
以下略
Weblio辞書-座-
ざ【×坐】
読み方:ざWeblio辞書-坐-
- すわる。「坐臥(ざが)・坐禅・坐像/跪坐(きざ)・静坐」
- すわる所。「坐席」
- いながらにして。何もせずに。「坐視」
- かかわり合いになる。「連坐」
「座」という漢字は場所を意味し、「坐」は動作や態度を意味することがわかりますよね。
「座」には座るという動作の意味はありませんでしたが、「坐」が常用漢字から外されたことからも、本来「坐」で表記すべき言葉も「座」が使われるようになっているという現状があるようです。
座禅と坐禅の実践の違い
簡単に説明しますと、お寺で多くの人が集まって行う瞑想の会は一般的に「座禅」と呼ばれます。
「座」には「集まり」や「つどい」などの意味が含まれていますから、座禅は集団で行われる瞑想の形式を指します。
一方で、修行僧が特定の場所を決めずに、自分の内なる迷いや混乱を感じた時に入る禅定は「坐禅」と呼ばれます。
坐禅は、より個人的で自発的な瞑想の形態を表しています。
このような疑問が浮かぶかもしれませんが、そうではありません。
座禅から坐禅へ
初めて瞑想を体験する際には、通常「座禅」として行いますが、経験を積んでいく過程で、次第に「坐禅」の実践に移行していくことが一般的です。
一般の方が初めて座禅をする場合、座禅会でお堂に座ることが多いと思います。
初体験では無になることは難しく、様々な思考が頭を巡りますが、これは座禅の初歩の段階として自然なことです。
しかし何度も座禅の経験を積んでいくことによって、次第に「坐禅」になっていきます。
坐禅では「無」になることを目指していますが、正直いうと私たち修行したお坊さんでも無になれることはありません。
無になれた時が悟りの境地ですので、お釈迦様以外は難しいのではないでしょうか。
自分自身の内面と向き合うのは難しい
私たちは常にたくさんの雑音のなかで生活をしています。
しかし人里離れたお寺のお堂の中は、まったくの別空間です。
自然の音以外はほぼ無音に近いです。
そういう静寂なところに身を置けば、心が穏やかに落ち着いていくようなイメージがあるかもしれません。
しかし、実際は逆なのです。
座禅を通して自分自身の内面と向き合っていくと、逆に思考力や想像力が研ぎ澄まされていくことを感じます。
環境が静かなことと反比例するように、次から次へといろんなイメージが頭の中へ湧き出てきますから、自分の心の中はこんなにもうるさく落ち着かないものかと驚きを隠せません。
やってみるとわかると思いますが、無になることはかなり難しいといえるでしょう。
無に近づくために
無になることはとても難しいので、無に近づくというアプローチをしてみましょう。
何回も座禅をやっていると、ある時ふと「坐る」ということを理解できる瞬間が必ず訪れます。
無ではないのだけれど、頭の中で思いついたことを左から右に流していくだけの作業を行うような感覚を発見する時がきます。
なかなかお伝えすることが難しいのですが、少し頭の中で想像して下さい。
あなたは、公園に寝そべって空を見ています。
空は、快晴ではなく青空の中に数個の雲が流れています。
今見ている空があなたの頭の中だとすると、流れている雲があなたの煩悩などの思いです。
あなたは、それを掴もうとせず、追いかけようとせずにずっと流れるまま放置してください。
これが坐禅の心得です。
他にも例をあげると、マラソン選手が走っているときの感覚なども近いものがあります。
確かに目では風景を見ているのですが、その風景をとらえていません。
走ることだけに集中していて、視界に入る風景は頭の中をただ流れていきます。
見てはいるのだけど頭に残っていない、その風景を追っかけて観ていない状態ですね。
そういう状態になれた時にあなたの座禅は坐禅になるのです。
天台宗と坐禅
坐禅の歴史は古く、そもそもはお釈迦様が行った修行です。
天台宗では、坐禅とはいわず「止観」と言います。
止観とは、「止」「観」の2つの方法を意味します。
- 止・・・一切の迷いから離れた究極の精神状態
- 観・・・迷いを生み出す心を冷静に観察する智慧(識別する力)
この2つは鳥の翼が片方だけ大きかったとしたら飛べないことと同じで、どちらか一方に偏ると誤った考えに陥ってしまいます。
天台大師様のおっしゃるには、
坐禅の修習にだけ頑張ってやっていると智慧の修習を怠り、悟りを得ることは難しく迷いの世界から抜け出せない。
坐禅だけをやって、勉強しないのはダメだということですね。
しかし、天台大師様はこうもおっしゃっています。
止観はさまざまな方法で修習できる。
しかし坐禅が最も優れた方法である
坐禅で止観を修習するのが最も良い。
坐禅自体を修習するのではなく、心の動きをしっかり観察しながら坐禅を行いなさいということですね。
座禅と坐禅の違いまとめ
現代では「座禅」と表記することが多いですが、本来の意味を考えると「坐禅」と書くほうが正式な表記となります。
坐禅に関する深い理解を得るためには、実際に座禅会に参加して体験することが一番です。
今は初めての方でも気軽に参加できるような座禅会が各地で行われていますので、自分自身の内面と向き合う貴重な機会となるのではないでしょうか。
坐禅に興味がでたら、ぜひお近くの座禅会に参加してみてください。
この記事を書いた人
大分県在住の天台宗僧侶。歯科医師や美容クリニックの院長としての経歴もあり、豊富な経験と知識が強み。
じゃあ、われわれ一般の人々が行うのが座禅で、修行僧が行うものが坐禅なのだろうか?